吾妻鏡は鎌倉幕府の公式の歴史書。書かれた時期や著者は未だ不明である。

源頼朝が兵を挙げた(兵士を集めて戦いを開始することだと思う)1180年から、6代目の将軍が鎌倉幕府の本拠地・鎌倉から追放されるまでを記している。ところどころで不自然な記述があり、ごっそり1年分記述がないこともあるなど、嘘や隠ぺいの匂いがすることも特徴の一つである。

要約


第1章:源頼朝(みなもと・よりとも)の時代


頼朝が挙兵し、最初の標的・山木兼隆(やまき・かねたか)はすんなり倒せた。

しかしその後、平家の重鎮に無残に敗北して逃亡。

逃げた先で大きい勢力が次々と味方になるという奇跡が起こり、頼朝軍は大軍勢に。鎌倉に拠点を構える。

挙兵から5年後に平家が滅び去り、その4年後に平家を倒した英雄・源義経(頼朝の弟)を殺した。頼朝はランクを次々と上げていき、ビッグイベントの日に襲撃を受けて大変なこともあった。しかし最期は病死。

亡くなる直前までの3年間は吾妻鏡の記述が無い。

第2章:源頼家(みなもと・よりいえ)の時代

頼家は頼朝の息子。

頼朝に比べカリスマ性は乏しく、御家人たちによる合議(会議)制が始まる。

吾妻鏡全体でそうなのだが、将軍に対して表面上では敬っているが、評価は辛口というより公平に評価をしていない。

(将軍とは対照的に悪いエピソードが無い北条得宗家《ほうじょうとくそうけ》については後に触れる)中でも頼家に関しては、もはや酷評を通りこしている。

不倫をしたのに相手の女性の夫を殺そうとして母親の政子に怒られたとか、大事な決定を「運で決める」と言っ
たなど、散々な書き様である。

頼家の後ろ盾の比企一族が北条家によって滅ぼされると、頼家は
鎌倉を追い出される。

やがて幽閉され、最期は殺される。


第3章:源実朝(みなもと・さねとも)の時代

実朝は頼朝の息子で頼家の弟である。

幼い頃に将軍に就いて16年ほどで殺されてしまうが、その間は頼家の時代から続く鎌倉時代の中
で最も悲惨な時期であった。

畠山重忠、和田義盛と重鎮が殺され、それらを葬り去った北条義時が執権というNO.1の重鎮となる。

実朝がある僧を見て「あなた夢に出てきた!」という謎の一言で始まった船建造プロジェクトは大失敗に次ぐ大失敗。

結局、鶴岡八幡宮
での右大将拝賀の儀式の際に甥の公暁(こうぎょう)に殺害される。


第4章:藤原頼経(ふじわら・よりつね)の時代


実朝が暗殺されると頼朝の血統から跡継ぎがいなくなったので、京都の朝廷に「親王(上皇・天皇の息子)を鎌倉幕府の将軍にしたいんですけど」と申請をしたが朝廷のトップ・後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に「なんでそんな危ない所に息子を送らなきゃいけないんだ!」とキッパリ断られ、しぶしぶ超大物貴族・藤原摂関家の九条道家の息子・
三寅(みとら)を将軍に据えることになった。

その後、鎌倉幕府と後鳥羽上皇との関係が悪化。

後鳥羽は北条義時を追討(殺害)令を出す。

その時、今(2023年6月15日現在)では「もはや無かった」と言わ
れることもある政子の大演説で鎌倉の武士がやる気にみなぎった。

幕府の重鎮・大江広元(おおえの・ひろもと)や、同じく重鎮・三善康
信(みよし・やすのぶ)が「モチベーション下がる前に京の都に攻めたほう
がいいですよ。」という現代の言葉でいうとこんな感じの提案をした結
果、進軍することを選んだ鎌倉幕府はあっという間に朝廷軍に大
勝。

京の都に到着した幕府に対して後鳥羽は事実上降参し、島流
しとなった。

天皇は廃され、次の天皇は幕府が決めたようなものだっ
た。

3年後に義時がこの世を去り、息子の泰時が跡を継ぐ。

彼が執
権であった間は特に大きな事件も無く(騒動はあった)、御
成敗式目という御家人に対してのルールも作り、比較的平穏な時
間であった。

その間に三寅は成人して藤原頼経と名を改め、将軍と
してイベントなどをこなしていった。

しかし、泰時が亡くなると事態は急
変。頼経は息子の頼嗣(よりつぐ)に将軍の座を譲って大御所のよう
なポジションとなり、鎌倉は不穏な空気に包まれる。


第5章:藤原頼嗣(ふじわら・よりつぐ)の時代

頼嗣は幼く、例によって頼経が「僕、今の将軍のお父さんだから誰よ
りも偉いんだよね。」と言い張る。

泰時没後に執権となった4代執権経時(つねとき)は若くして病死。

跡を継いだ5代目で経時の弟・時頼(ときより)は驚くほど行動が早かった。

それは鎌倉である騒動が起こった。

時頼は、「その黒幕は頼経様なんじゃないの?」と結論付けて頼経を京に追放さした。

もはや将軍は、執権が操れるようになっていた。

その1年後に北条に次ぐライバル・三浦氏が北条家によって主要な人物が滅ぼされ、時頼はもはや盤石の地位に上り詰めた。

その何年後かに頼嗣は鎌倉を追い出されて京に帰った。

北条家のお得意の手なのだが、幼い将軍の代わりに政治を行い、成長して「あれ?俺もしかしたら影響力大きいんじゃない?」と思わせたところで即追放しているので、酷いの一言である。


第6代:宗尊親王(むねたかしんのう)の時代

頼嗣を追放した幕府は、とうとう親王を将軍に据えることに成功。

去ること数十年前に後鳥羽に拒否されたが、とうとうこの時がきてしまっ
たのである。

その宗尊親王は、イベントに出たり和歌を嗜むなど、本当に権力者なのかどうか疑う生活を送っていた。

こうなると、もはや看板だけの存在である。

その間に時頼は執権を一族の人に譲ったが、実は権力者としては執権の上にいた。

かつて頼経は大御所のようになったが、時頼も要は同じことをしたのである。

その後、特にこれといった大きい出来事もなく、宗尊は京に追放され、吾妻鏡は執筆を終えた。